皆さんこんにちは。
アラフォーフリーランスのコーヤマ・リョウジです。
突然ですが、皆さん、”死生観”ってありますか?
先日ご紹介した「あした死ぬかもよ?の紹介記事」でも
軽くこの”死”というテーマに触れましたが、
正直なところ私自身は、あまり”死”に対して恐怖を感じていません。
でもそれは、決して「強いから」ではないんです。
たとえば堀江貴文さんは、自身の著書『ゼロ』で、幼少期からずっと死の恐怖に囚われていると語っています。
僕はずっと死への恐怖にとらわれて生きてきた。いまもなお、その恐怖は強くある。
堀江 貴文著 「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」
はじめて死を意識したのは忘れもしない、小学1年生の秋である。
<中略>
これといって考えごとをしていたわけではない。なのに突然、気がついた。
「僕は、死ぬんだ」
人はみな、いつか死んでしまう。お父さんもお母さんも、いつか死ぬ。そして僕も、死んでしまうんだ。この世から消えてなくなってしまうんだ……!!
あたりの景色が暗転したような、猛烈な恐怖に襲われた。
気がつくとその場にうずくまり、うなり声を上げながら頭を抱えていた。僕は死ぬんだ。消えてなくなるんだ。死んだらどうなるんだ、僕はどうすればいいんだ!! 嫌だ、嫌だ、死にたくない!!
この日の帰り道以来、僕の脳裏から死への恐怖が消えることは一度もなかった。
ぼんやりと物思いにふけっているとき、ひとりで道を歩いているとき、電気を消して眠る前。突如として「僕は、死ぬんだ」「この世から消えてしまうんだ」という恐怖に襲われる。まるで発作を起こしたかのように、頭を抱えて「ウワーッ」とうなり声を上げる。
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もしこれをご覧になって、「コーヤマの方が、死に対して強い」と思った方が居たら、それは真逆です。
なぜか。
簡単にいえば、私の中には ”死生観が醸成されていない” んです。
死というものを直視していない。
だから恐怖心が沸かないし、不安にもならない。
知ることと、知らないこと
例えば、赤ん坊はお湯の沸いたヤカンが熱いことを知りません。
熱いものに触ると、火傷してしまうこともしりません。
だから、お湯が湧いてピーピー鳴っているヤカンに興味がわいたら、近づいてしまいます。
手に届く場所にあれば触ってしまうでしょう。
私、子どもの頃はゴルフ中継などが流れていても、「止まってる球を打つだけと退屈そうなスポーツ…」くらいにしか思っていませんでした。
しかし、先日の記事でもご紹介した通り、今では大がつくほどのゴルフ好きです。
ここのところ試合の中継を見ては、「この状況は相当難しそう…!」「良く打った!!」などとボヤき、感嘆する週末を送っています。
ここに感情の起伏が生まれたのも、自分がゴルフをプレーすることになり、「その状況の難しさ」を身をもって体感して”知った”からなんですね。
知らないものは、怖くない
恐怖心や不安感も、きっとこれと同じようなことだと思うんです。
全く知らないし、想像もできないようなことは、あんまり怖くないし、不安にも思わなくありませんか?
全く知らない、想像できないものって、意外と怖くないんです。
たとえば、ブラックホールの中や、宇宙の果て。
「ヤバそう」ではあるけれど、怖いかと問われると、実感は湧かないはずです。
でも、「自分が今ここで死ぬとしたら」とか、「大切な人を失うかもしれない」といったことは、リアルに想像できる分、強い恐怖や不安が湧いてきます。
つまり、何かに恐怖を感じていたり、不安を抱いているということは、
なんとなくでも自分で調べたり、イメージしてみたことがあるということなんですよね。
恐怖や不安に、OKを出してあげよう
恐怖や不安は、つい「弱さの証」と思われがちです。
でも実はそれ、自分がしっかり向き合っている証拠なんです。
だから、今まさに怖くて動けない、不安に押しつぶされそうって人は、
それを感じてる自分を少しだけ、褒めてみてあげみて下さい。
恐怖や不安はNGな感情じゃなくて、むしろOKな感情だと捉えましょう。
「じゃあその感情に打ち勝つにはどうすりゃ良いのさ」という考察については、
次回以降で触れていきたいと思います。
最後までご覧頂きありがとうございました。
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